バラは美しいけれど、手が掛かり手入れが難しいと言われる。ほっておいても咲くのだが、手を入れただけ報われるものだ。ただし、やり過ぎは禁物。何事もそうだが。
今年の最初の仕事は消毒。薬を撒きたくはないが、消毒しないと病気になり葉が落ちて株が弱ってしまう。肥料も株を元気にするために与える。目的はバラの健康であり、花はその結果です。
バラは美しいけれど、手が掛かり手入れが難しいと言われる。ほっておいても咲くのだが、手を入れただけ報われるものだ。ただし、やり過ぎは禁物。何事もそうだが。
今年の最初の仕事は消毒。薬を撒きたくはないが、消毒しないと病気になり葉が落ちて株が弱ってしまう。肥料も株を元気にするために与える。目的はバラの健康であり、花はその結果です。
営業の経験がない人は、営業職はセールストーク、つまり話が上手いことが営業には大切で人見知りしないでよく喋るとかステレオタイプな認識を持っている人が結構いるのが残念な気がする。
この手の人は血液型のタイプの話をする人も多かったりする(苦笑)。
かく言う私も最初の会社が設計コンサルの設計職?だったのでバリバリの営業会社で鍛えられた人には及ばないところが多々あり、特にセールストーク的なところは鍛えないとならないと転職して営業になった当初の自分は思っていたのだが、どうも本当に大切な事は違うなと気付いていった。
営業でいちばん大事なのは、テクニックやセールストークではなく、売れるスキームを作る事だと営業に転職した会社の先輩たちから学べた事は大変に幸せな事だったと思っている。
偉大な先輩たちだったと思う。
テクニックやセールストークは戦術と言うかサイドアーム、スキームは戦略と言うかメインアームと捉えられるかと。
では、どうやってスキームを作るかと言うとその会社やその人に拠るので一概には言えないがスキームを作る事が大切と気付けないと営業を続けるのは辛いと言うのは間違いないかなと。
スキームが出来上がっている中は入っていければ楽で良いのだが。
とは言えスキームを作る事は一筋縄ではいかない。
あれこれと考えて悩んで試してとトライアル&エラーを続けていけば経験と共にどこに行っても通用するかと。
でも個人向けの営業だけはしたくないと(苦笑)。
それと営業は、相手に買いたいと思って貰らうのが仕事、その為には顧客に有効な提案をしなくてはならないし、その為にはニーズやウォンツを理解しないとならないし、その為には顧客に話をして貰わないとならないし、その為には信用して貰わないとならないし、となっていく。
つまり「聞き上手」になることが大切である。
ベラベラ喋ったり自社(自分)の都合ばかりの人と真摯に話を聞いてくれる人のどちらを選びますか?となる訳であり、「聞く力」の大切さにも気付いたのであった。
ちなみに「話しベタ」の人は「聞きベタ」である事が多い。
人の話を聞いていないし、聞いている人の状況を理解しようとしないので、何を話していいか分からなったり、相手に伝わらなかったりして、それを自分は「話しベタ」と勘違いしているように思えてならない。
コミュニケーションは一人で行うものではなく相手との共同作業と言う事を忘れてはならない。
「聞く力」について、これだっ!!と言う記事を発見、自分も良く読もう!!。
「就職戦線異状なし」と言う映画を高校生の時に友達数人と観に行った。
ぶっちゃけつまらなかった。
当時からあまり邦画を観ることはなく「SCREEN」と言う洋画の雑誌を買っていたくらい洋画好きだった。
映画=洋画だった。
関係ないが妻となってくれた人に好きな女優を聞かれて答えたのが「イングリット・バーグマン」だった(苦笑)。
勿論、オードリー・ヘップバーンもチャーミングで大好き。
びっくりされたので「こじはると深キョン」とも言った。
さてさて、自分の就職戦線だがテキトー過ぎて申し訳ない程だ。
地方の国立大学"あるある"だと思うがOB・OG、教授が共同研究している会社等のツテの紹介で決まってしまうヤツである。
研究室のOBの方(後の上司)から教授に連絡があり、「どうする?」って電話を貰ったのが切っ掛け。
国家公務員や地方公務員の試験は落ちてしまったので二つ返事で入社させて貰った。
農業土木の研究室だったので、設計コンサルに入社して農道・水路・橋梁等の設計や積算がメイン業務でパソコンに詳しいからと調度始まった電子納品や電子入札の担当者や社内LANの担当者にされた(苦笑)。
EXCEL(VBA)で水利計算できるモノをいくつも作ったのは良い思い出。
当然のことながらCADも覚えたので、今も板金屋さんに趣味のモノを発注する図面を描く際に役立っている。
指名入札の為にISOの資格の取得している時期でもあり、分厚いマニュアルを抱えている上司たちを見て会社として資格を取得することの大変さを間近にみたものだ。
ちみなにこの時の上司とは未だに年賀状やお中元をやり取りしている。
とても面倒見の良い素晴らしい方だったが公共事業が縮小していたのもあり支店の閉鎖に伴いリストラされてしまった。
その支店では自分だけが本社勤務として残された。
と言う事もあり会社って怖いなって言うのと致命的だったのが向いていないなぁと思い始めたのと家庭の事情で地元に帰ることを家族会議で決めた。
当時はLinuxがブームで各ディストリビューターのパッケージ製品がヨドバシカメラ等の小売店に並んでいて、とあるメーカーのパッケージ製品を就職して直ぐに購入してLinuxを体験していた。
そしてそのメーカーのホームページ上で営業とエンジニアをポテンシャル採用で募集していたが、そもそも一日中社内でパソコンの前にいるのが嫌だったので営業で応募したら採用されたのがIT業界と営業人生の始まりである。
RedHatの日本法人が出来る前にローカライズしてスーパークローンと言い張って販売したメーカーと言えば分かる人には分かるだろう。
異業種転職ラッキーと思っていたが、設計をしていたのが面白かったからと採用理由を後に聞いた(笑)。
縁だよ、何事も縁。
てっきりパッケージ製品を売るのかと思っていたら自社ソリューションのフォレンジックサーバーの販売(代理店開拓)だった。
後に組み込みLinuxをメインとしたシステム開発の営業になった。
docomoがこれからはLinuxと叫んだ頃くらいだったような。
が、入社してすぐのミッションは自社製品の「L-Router(製品名丸出し!)」が入ったマンションでこいつの調子が悪いから見てこいと言われノートパソコンを持って行って現地でTera Termで繋いで状況を電話で伝えながら処置をしていた。
俺、営業だよなぁと思いながら。
フォレンジックサーバー(アプライアンスサーバー)もインストールからデモ環境の構築や取得したパケットの引っこ抜きとか、LTOに保存したりとか・・・。コマンドラインと必須のツールがWinSCP。
俺、営業だよなぁと思いながら。
Linuxのディストリビューターなんだから必要なものだけでmakeくらいできなきゃとか。
俺、営業だよなぁと思いながら。
トラブルの打ち合わせで客先で社長と待ち合わせたが現れず、前任者が売った製品(自社ソリューションではない)でサッパリ分からない中で10名強の相手に質問攻めにあって往なしていたら、遅刻した社長がやってきて独演会を始めてしまったりとかもあった。
某証券会社を某アンポンタンが間に入って前任者が売ったシステムのスポット保守でサーバールームに缶詰にされ終電がなくなり、某アンポンタンの担当者は僕は派遣なんで分かりませんと颯爽とタクシーで帰りやがった事もあった。
流石に頭にきて値引きするしないでその派遣の上司のプロパーのジジイと喧嘩してまで値引き拒否したのも良い思い出だ。
トラブルも時が経てば良い思い出だし、修羅場を経験すると肝も据わる。
愚痴で終わらせるか糧とするかは本人次第。
新人営業としては自分が売る時は手離れと信頼関係がとても大事と学んだ。
P店オーナーが屋外の大型LEDディスプレイ(長辺4~5mくらい)を欲しいって!!と言われいくつものメーカーを探して巡って調達して1台3,000万円を2台売れたのも良い思い出。
接待受けたのも初だったな。
けんもほろろだったメーカーの担当者が後々に飛び込み営業に来た時は流石に失笑した。
巡り回るのよ、何事も。
他にも色々とトラブルや新規開拓の苦労はあったけど、営業部の良い先輩達が導いてくれたのとエンジニアの皆が「なければ作ればいいや」とフットワークが軽くノリも良く技術力も高い人たちに恵まれたからこそ良い思い出になったと思っている。
やったことがない、分からないで終わりにするエンジニアがいなかったのは奇跡的。
未だに繋がりがあったりする。
そんな経験から自分で勉強するのは当たり前としても尊敬できる先輩や面倒を見てくれる人がいるかいないかが20代の成長には重要なのではないかと思う。
弊社もそんな環境を提供できればと模索している。
あと、ブラック企業に耐えられるメンタルは必要はないが、現実を直視して受け入れないと改善も出来ないので真っすぐに受け止められるメンタルの強さと意味のないプライドを捨てる事は大切。
そして、協調性や思いやりは最も大切。
聖徳太子様も仰っておられます『和を以て貴しとなす、忤(さか)うること無きを宗とせよ。』と。
新人に「ほう・れん・そう」を教える上司が心がける「お・ひ・た・し」に共感の声、その内容は?
全くその通りで、『ほう・れん・そうが出来ていない』と立腹する人はどこにでもいると思うが、実際は貴方が"マネジメントとはなんであるか"を理解していないからであると思っている。
タイミングや粒度を予め決めたり、自分から話し掛けて引き出したり、適格な対応が出来ない上司に「ほう・れん・そう」なんてするだけ無駄であると体験させてしまっていることが問題だと思っている。
成功体験ではなく失敗体験を植え付けてしまっている事に気付かない上司ほど部下が悪いと決めつけてしまっている傾向が高い気がする。
これが分かり易い現場は「任せた」=「丸投げ」の現場に多い気がする。
そうならない為にも常にお勉強は大事だと思う。
エンジニアだとこんな資格もあるが難易度も高いようである。
獲れた人を尊敬する。
https://www.enworld.com/blog/2019/07/Project-Management-Professional
私は営業なので遥かに簡単だけど体系的に学びたいなと思い下記の資格を取得した。
一通り現場で経験していれば大して勉強しなくても取得できると思うと言うか出来た。
で、結論としては自己流は危険と言うことが良く分かった。
自己流=独り善がりになりがちで周りの人が不幸になってしまう。
まずはデファクトスタンダードを学び、それを現場でどのように応用できるかが大切であるなと。
経済産業省から『DXレポート ~ITシステム「2025年の崖」克服とDXの本格的な展開~』が世に出されてから「2025年の崖」や「DX」の言葉を頻繁に目や耳にすることが増えている。
講演やプライベートセミナーも多い。
「2025年の崖」とは、作った技術者も年をとり引退しブラックボックス化した既存システムが残ってしまった場合に想定される競争への遅れや経済の停滞などを指す言葉で既存の基幹システムを新しくする必要があり、これに遅れた企業は多くの事業機会を失うと言う恐ろしい内容だ。
レガシーシステムからはさっさと移行しようぜってこと。
話は変わってソフトウェア開発会社もレガシーな会社かモダンな会社かで顧客からのモテ度が違う気がしている。
会社のキャラクターを独断と偏見で3つの要素で分けてしまうと下記のようになる。
これらの中で何を変えたくないのか?その為には何を変えなくてはならないのか?
優先順位は?、で何となくその会社がどんな会社かイメージが付きやすい。
これらの外側に売上重視or趣味(こだわり)重視、拡大重視or内輪(の満足度)重視、自社サービスなどがキャラクターを決める要素としてあるかと。
メディアの紹介でキラキラしているように見える会社は、「自社サービス」&「自社受託&モダン&上流」な会社だと思うけど、周りを見渡してもそんな会社は多くはないなと。と言うか滅多にないなと。
出来ている会社を見てみると時代の流れに追随が出来ている一部の会社だけ。
時代の流れのどこに追随出来ているのかと言うと依頼内容や発注者の変化への追随だと感じる。
ひと昔ふた昔前は大量生産大量消費&右へ倣えの時代、今は多品種少量生産&多様化の時代。
ひと昔ふた昔前は業務の省力化の為、今は新たなビジネスをスピーディーに始める為。
ひと昔ふた昔前は企業のシステム部門のエンジニアが顧客担当者、今はユーザー部門のエンジニアではない人達が顧客担当者。
そうなると見えない裏側のロジックの話や専門用語の技術話よりも見える「UI/UX」や「ビジネスモデル」を一緒に考えてくれる会社が発注者からするとありがたいし、そもそもそこに力を入れないと顧客担当者に有効な提案が出来ない。
以前は顧客担当者も開発会社もエンジニア同士なので極端な話をすると見積書だけで事足りた。
だが、今は当たり前の話だがどうすれば実現できるかの担保を見える形で示さないとならない。
この変化に追随出来ている、要するに顧客との接し方と自分たちが提供できる価値を変革出来ている会社が「自社受託&モダン&上流」の会社としてやっていけている気がしてならない。
「だめなITベンダー・SIerの行動特性」の題名で素晴らしく分かり易く書いてあるブログが下記ではないかと。
「時代の変化に追随出来ていない旧来の会社」≒「だめなITベンダー・SIerの行動特性」と自分は受け取った。
弊社もこれじゃいかん!!と補完しあえるパートナーとタッグを組んで、コンペに参加しプレゼンして案件の受注を目指すようになった。
最初はダメダメだったが、上場企業の案件をプレゼンで獲れた時はPMの達成感も非常に高く、開発が大変な時も自分たちが一から獲った案件なので苦労のし甲斐があるとのこと。
先は長いが「自社受託&モダン&上流」なキラキラしたモテる会社になれるように頑張っていこう。
自作に行く前にプリンター遍歴を
1.カメラに凝っていた時代
・銀塩カメラ時代
・デジタルカメラ時代
2.カメラに凝らなくなった時代
で大きく変わってきます。
毎年購入するくらいの頻度だったので印象に残る機種のみ紹介します。
まず、1.カメラに凝っていた時代且つ銀塩カメラ時代に人生初のプリンターを購入。
家庭用として初めて多色プリンターが買える価格での登場でした。
そのエポックメーキングな機種はエプソンのPM-700C
フォトプリンターの歴史はこの機種から始まったと言っても過言ではないです。
当時大学生で5万円弱で購入しました。
フィルタースキャナーで取り込んでPCでレタッチしてこのプリンターでプリントと言う流れ。
PCのメモリが64MBで大容量の時代。
まぁ、PCについて別の日記で。
それ以前はX68000が勢いがあった頃にHPが4色インクジェットプリンターを10万円を切る価格で発売して騒がれたものです。
インクタンクもカラーは一体型で千円ちょっとでランニングコストも悪くは無かった記憶があります。
この後はマイナーチェンジっぽい改良を重ねていきましたが、ヘッドの目詰まりに悩まされエプソンよりも構造上はマシと言う話のキヤノンに乗り換えました。
近づいただけで超えてはいません。
この辺りからはデジタルカメラ時代になります。
銀塩でF5を使っていたので、必然の流れかと。
今と違いインクも安めで確か透明のインクタンクでエプソンよりも良心的だったと記憶しています。
結構、気に入って後継機種も買いました。
当時は奈良や京都に写真を撮りに熱心に行っていた時代でもあります。
特徴はレッドとグリーンのインクを搭載したことですが、新緑や真っ赤な楓の紅葉の写真を印刷してもグリーンやレッドのインクがなかなか減らないので本当に使っているのか疑問に思ったものでした。
これ以後はデジタル一眼レフも高画素な機種が増えてきて1,000万画素超が当たり前になり、プリンターもハイエンドモデルは顔料インクとなりました。
キャリブレーションに凝った時期でもあり、高いお金を出してキャリブレータを買いました。
スパイダーのセミナーを聴きに行ったりもしてました。
HP Photoamart Pro B9180
業務用ではメジャーなHPですのでキャリブレーション機能を内蔵と言う点に惹かれました。
が、使ってみると1色4,000円超×8色で3万円を軽く超えるインク代。
補正を掛けないニュートラルなプリント品質は気に入っていましたが、紙送りのローラーが故障してHPで修理出来ないとなり処分しました。
プリント熱も同時に去り、高価な機種を買う事はなくなりました。
残りは後ほど・・・。
初回は、IT業界っぽく、必須となるPCとの出会いや遍歴を書いてみます。
PCに入るかどうか微妙ですがMSX2が初です。
MSXと聞いて20代の人は聞いたこともないかもしれないですね。
歳がバレますね。
FDD(フロッピーディスクドライブ)すら外付けデバイスとして高価(数万円)な時代です。
その後は高校入学祝いに父親に買って貰ったX68000 XVI
キャッチフレーズは「父のパソコンを超えろ」です。
父のパソコンは間違いなくこの時代のトップシェアのNECのPC-9801です。
アイボリーホワイトのただの箱のPC-98と違いガンメタルなツインタワー「マンハッタンシェイプ」と呼ばれたX68000 XVIは今でも最高のデザインだと思っています。
これ以上にカッコイイPCは未だにないです。
CPUに他の機種はインテル社の8086系の中、当時のMacintoshと同じく珍しいモトローラ社のMC68000を使用しています。
グラフィックが非常に強力で当時としては色々と画期的な機種でした。
開発したのがシャープ社のテレビ部門と言うのが益々魅力を感じます。
14インチの液晶モニターが70万円以上して、100MBのHDD(ハードディスクドライブ)が5万円もした時代のお話です。
ソフトバンク社が出版を頑張っていて「Oh!X」と言う雑誌のプログラミング記事を読んでは打ち込んでいましたが、この頃からソフトウェアよりもハードウェアにワクワクしていました。
次は、ソニーがデザイン及び開発して話題になったMacintoshの初代のノートパソコンであるPowerBook100を買いました。
トラックボールがついていました。
OSは今のLinuxベースのMacOSではなく漢字talkと言われ日本語入力はFEP(フロントエンドプロセッサ)と呼ばれていました。
「ことえり」とネーミングされたFEPがデビューし、Macintoshにも実用的な日本語環境が整ったと騒がれたものです。
ハイパーカードと言うソフトウェア開発ツールも弄ってました。
そして、WIndows95。
日本のメーカーが各社独自に開発していたPCは全て駆逐されました。
NECのPC-98、シャープのX68000、富士通のFM-TOWNS。
Wintel(ウィンテル)と呼ばれた黄金時代の幕開けなのですが、イレギュラーな仕様のサイリックス社のCPUで自分の自作PCの道が始まりました。
そう、ソフトウェアなんてどうでもいいのです!!。
ハードウェアのスペックにこそ、血沸き肉躍ります。
次回からは自作PC遍歴を(笑)。